『世界』2001年7月号・米山リサ「メディアの公共性と表象の暴力 NHK「問われる戦時性暴力」改変をめぐって」より
私たちが伝え聞いた一・二四「完成納品版」の構成は、一二月のスタジオ収録のさいのVTR・ナレーション構成の流れにほぼ近いものであると思われた。大きな改変はまず、一・二四「完成納品版」と一・二七「修正台本版」の間に行われ、そしてその後一・三〇「放送版」に至るより明白な「改竄」へと加速していったとみてよいだろう。私の発言に対して段階を追ってほどこされていった変更のプロセスをみてゆくことで、どのような要素が一貫して周縁化され、沈黙させられていったのかが明らかになる。それは(1)生存者の女性の証言と責任者処罰など、法廷の詳細への言及、(2)主催団体への直接言及、(3)責任の明確化なくして「和解」は成立しないという論評、(4)昭和天皇への有罪判決と社会変革の可能性への言及、以上4つの側面にわたっている。
(1)「放送版」で「私」のコメントが流れるのは番組開始後一八分あまりを経過してからだ。「私」はいきなり「二〇世紀のフェミニズム思想の大きな流れ」について語り始めさせられる。これとは対照的に、一・二四「完成納品版」冒頭での筆者の発言は、「女性国際戦犯法廷」が東京で開催された事実についてのごく直裁なコメントだった。その内容は凡そ以下のとおりだったことを確認してもらった。
国境を越えた市民が共有できる言葉をもてた。これまで法律の判断に委ねられなかったこと、裁けなかったことがどのように裁けるのか、どのように犯罪だとみなすことができるのかを確認できた場だったと思う。こういうふうにすれば歴史の出来事、あるいは犯罪を犯した人を裁くことができるのだ、という尺度を共有できるひとつのエンパワーメントの場だったと言える。アジアの各地あるいは世界の各地でさまざまな形で大勢の女性が取り組んできたことが一同に会したことがいちぱん大事なことだ。
この個所は一・二七「修正台本版」からすでに消されている。私は『週刊金曜日』(三五七号)の電話取材に対して、放送された番組は一貫して責任者処罰に触れることを避けている、と述べた。この冒頭のコメントの削除はそのことを裏付けるものであると同時に、法廷そのものへの言及が徐々に消されていったことを物語るものである。いっぽう、一・二七「修正台本版」では残っていた生存者の女性たちの証言のVTRへのコメントが「放送版」ですべて省略されたことは、本誌五月号で高橋氏がすでに明らかにしているので、ここでは繰り返さないが、一・二四「完成納品版」では証言についてのコメントのなかで歴史教科書問題についても触れていたことが確認されている。
(2)削除と隠蔽は、責任者処罰への言及、法廷の詳細についてだけでなく、法廷の主催者への言及についてもなされていた。表象文化論者北原恵氏は、「沈黙させられたのは誰か──NHK番組改編問題・テレビ映像における捏造」と題する論考で、法廷の運営委員でもあった内海愛子氏のインタヴューが、一・二四「完成納品版」で急速加えられた秦郁彦氏のインタヴューによって映像的にも従属化させられたものとなっていたことを指摘している(『インバクション』一二四号、一三〇頁)。同様の周縁化は、筆者の発言に対して以下のような削除と切断が加えられていたことにも示されている。改憲があったことを知らずに番組を見た人たちでさえ奇異な印象を抱いたという、「放送版」にきわめて不自然に残された「私」の一言は、「完成納品版」に含まれていたつぎのような文脈から抜き出されていた。(緑の部分が「放送版」では残されて二つに切り離された個所。)
日本軍あるいは日本政府が、かつて過去に犯した行為が犯罪であったかどうか、その判断ですね、つまり裁きですね、それを下す手段も経ないまま、したがって、処罰されず免責されたまま、その上で、許されることを前提とした謝罪を行ってきた、そういうふうに見られているからではないかと思うんですね。法廷の主催者の方々がこの法廷を開くにあたって、一つの可能性としては南アフリカで行われている真実と和解委員会、それをモデルにするのではなくて、むしろ刑事処罰を目指した刑事裁判に近いものにしたい、と、そういう判断をされたということを主催者の方がいっている。このことはすごく大切なこと。和解というのは、取り返しようのない、償いようのない過去にどう向き合うかというときに、解決しようのない問題があるにもかかわらず、どこか暴力を受けた側と暴力を加えた側が一気にその大きな深い溝を、一越えられるはずのない溝を越えてしまうんだ、越えてしまおう、という意図があると思うんですね。法廷がそういった和解を前提としたものではない、和解を予め目指したものではない、ということが大事だと思うんです。法的な判断が下されようとしている行為ですね、裁きが下されようとしている行為、それ自体が恐らく和解などは到底許されようのないものだ、それほど償いきれないものだ、謝罪しきれないものだということをある意味で垣間見せているのではないかと思うんですね。
この発言のなかで筆者が法廷主催者に言及した部分は、一・二七「修正台本版」に変更された段階ですでに削除されていた。
(3)さらに法廷主催者による取り組みの思想的意義に関する筆者の発言も、一・二七の段階ですでに脱脈絡化されしまっていた。高橋氏が本誌で明らかにした「修正台本版」によれば、導入部の「私」のコメントは、以下のようになっている。(紫は「放送版」で削除された個所。)
この法廷を二〇世紀のフェミニズム思想の流れの中に位置づけることが、とても大事なことだと思っています。とくに二〇世紀後半になってフェミニズム思想のなかでは植民地主義、経済侵略、レイシズム、民族差別、そういった歴史をふまえて、加害者あるいは支配の側にたつ女性たち、支配される側に立つ女性たちがどのような関係を結んでいくかということが大きな問いとなっていると思うんですね。そのなかで、この法廷を支えてきた思想というのは、やはり加害の側にたつ女性がどのように答えるかという、その一つの姿勢を示した点で、非常に重要な例を示していると思います。同じような問いがほかの世界各地の、様々な歴史の脈絡のなかで、同じ問いが問われている、その意味で非常に重要な意味を持っている例だと言えると思います。
「修正台本版」でも「放送版」でもどういうわけか「私」の締めのコメントとして残された発言、「やはり歴史の中で生まれてきた大きな溝はそう容易に埋められるものではない。同じ女同士だからといって簡単に連帯はできない。同じ女同士でありながらも、超えられないさまざまな歴史によって形作られてきた位置の違い、体験の違い、権力的位置の違い、そういったものがあるのだという認識の上に立って、そしてさらに、どうやってその中から連携を生み出してゆくか、そういう問いに対する答えだと思うんです」という個所は、じつはこの後につづくものだった。
「私」の発言が意味を成さなくなったばかりか、法廷の取り組み自体への評価を避けたかのような誤解が生じた理由が、紫部分の「非常に重要な例だ」と述べた述語の部分を二箇所にわたって削除し、しかも二つの文を不細工につないだ編集にあったということがこのように比較することで明らかになる。「私」の論評は、法廷の主催団体の女性たちへの言及がなくては意味を成さない。「問い」の部分と「答え」の部分を番組の冒頭と末尾へと引き裂いてしまったために、いったいどのような重要な問い(すなわち、近年のフェミニズムにおいて中心的課題となってきた、「女性」の非同一性という「問い」)があり、それに対して誰(法廷を主催した女性たちに他ならない)が、どのような答え(それは歴史的差異をふまえて連帯し前へ歩き出すためには、過去の暴力の責任を明らかにし、裁くことが不可欠だという「答え」であった)をだしたのか、という、女性法廷という取り組みそのものが曖昧にされると同時に、その成果を論評していた発言の意図も失われてしまっていたのだ。一・二七「修正台本版」でも一・三〇「放送版」でもともに切断されてしまったこれらのコメントの脈絡の一貫性は、一・二四「完成納品版」では保たれていた。
(4)一・三〇「放送版」では、法廷が日本軍性奴隷制についてどのような法的結論を差し出したのかという事実が隠蔽された。この事実もまた、段階を追って消されていった。「放送版」では有罪判決は海外メディアの報道という間接的な──より厳密にいうなら日本語だけでは「判決」が下された事実も内容も伝わらない──かたちで放映された。しかし「修正台本版」でも、すでにこのような周縁化は起きていたのだ。たしかに「修正台本版」では、法廷が昭和天皇と日本政府の責任を認定した事実がVTRで伝えられることになっていた。しかし、その後につづく高橋氏のコメントは、氏が新撮に応じて述べた「人道に対する罪」一般についての長々としたコメントヘと変更・挿入されている。高橋氏の発言の新撮箇所からは、冒頭でもこの部分でも、「裁き」「処罰」といった表現は避けられていたのだ。いっぽう一・二四「完成納品版」では、判決のVTRを受けて、筆者は「現実の社会変革がなくては法の正義そのものが遂行できないことを示す、社会変革に介入する判決だった」とコメントしていた。もちろんこの個所は「放送版」では削除され、(3)でのべた「和解」と「女同士の連帯」についての継ぎはぎで不明瞭な発言に差し替えられていた。 一・二四以後の新撮を含む改変が、第二夜をシリーズ全体におさめる目的でなされた、というNHKのこれまでの説明が事実に反したものであることは、以上の考察からみて明らかだろう。証言と判決は、法廷が日本軍性奴隷制を「人道に対する罪」とみなしこれにどのような国際法上の判断を示じたのか、という、いわば「戦争をどう裁くか」という四回シリーズの全体テーマと第二夜との接点そのものであった。番組の核心部分をこのように周縁化し、消し去っていったことは、番組制作上の一貫性を保つという局の重視する編栗葬からいっても破綻していたといわざるをえない。